2050年のカーボンニュートラル実現に向けて、水素は世界各国が注目する次世代エネルギーの中核だ。水素は燃焼時に二酸化炭素を排出せず、輸送や発電、製造などの用途で脱炭素社会の鍵となる。この重要技術分野で、長らく特許出願数・技術リーダーの地位を保ってきた日本が、ついに中国に抜かれた。これは単なる出願数の変化ではなく、「製造とスケール」に強みを持つ中国の戦略転換の現れであり、日本の課題も浮き彫りにしている。
中国、製造技術で躍進:IEAと欧州特許庁の分析から見える勢力地図
国際エネルギー機関(IEA)と欧州特許庁(EPO)が発表した共同調査によれば、2011年から2020年の間に水素関連の国際特許出願で世界全体の約80%を占めたのは、日米欧中韓の5地域だった。なかでも日本は、全体の24%を出願するなど圧倒的なリードを誇っていた。しかし直近の統計では、中国が日本を追い抜き、世界首位に立った。
特に目立つのが、水素の「製造」に関する特許群である。水素製造には大きく分けて、化石燃料由来の「グレー水素」、炭素回収を伴う「ブルー水素」、そして再生可能エネルギーを活用した「グリーン水素」があるが、中国企業はその全てに対して網羅的かつ攻勢的な出願を進めている。
とりわけ電解水によるグリーン水素の製造装置や触媒、エネルギー効率向上に関する技術での出願増加が顕著であり、同分野で世界の特許競争力の地図が塗り替えられつつある。
出願数だけではない:中国の“量産可能性”がもたらすリアリティ
中国が台頭してきた背景には、政府の強力な支援と、内需を背景とした「製造実装力」がある。中国政府は「水素エネルギー産業発展中長期計画(2021〜2035年)」を打ち出し、国家戦略として水素を支援している。この政策のもと、複数の地方政府や企業が水素技術に投資し、パイロットプロジェクトを積極的に展開している。
注目すべきは、単に研究開発を行うだけでなく、製造ラインの構築・標準化・供給網との接続を同時に進めている点だ。たとえば、中国の大手電解槽メーカー「Peric Hydrogen」や「Sungrow Hydrogen」は、MW(メガワット)級のアルカリ水電解システムを既に量産しており、2024年時点で世界のプロジェクト案件の多くに採用されている。
さらに、これらの製造業者は多数の関連特許(プロセス制御・材料・運用システム)を保有しており、技術的なクローズ戦略も明確だ。つまり、中国の台頭は単なる「数の力」ではなく、「作って届ける」までの実装を見越した特許戦略の成果だといえる。
日本はなぜ遅れをとったのか:強みと限界
一方、日本の水素特許技術は依然として質が高く、自動車メーカーを中心に燃料電池技術や水素運搬・供給インフラに関するコア技術は世界トップレベルだ。トヨタやホンダ、岩谷産業、新日鉄住金などの大手企業は長年にわたり技術蓄積を行っており、水素供給網の整備やステーション設置などの分野で高い信頼を得ている。
しかし、日本の課題は「社会実装スピード」と「民間主導への転換」である。多くの技術はプロトタイプや実証実験段階にとどまり、商用化に向けたスケーリングが遅れている。また、官民連携は進んでいるものの、中国のような国家を挙げた大規模インセンティブや公共調達と連動した支援には至っていない。
結果として、日本企業は水素製造のコスト競争力や展開速度で中国に後れを取り、特許出願数でも失速する事態となった。さらに、日本の中小企業やスタートアップによる水素関連技術の国際出願も限られており、「量産フェーズに乗れない構造的課題」が浮かび上がる。
独自分析:グローバル特許戦略で生き残る道とは
筆者が注目するのは、水素関連特許のグローバル出願傾向と、中国企業の“包囲網”形成の巧みさだ。たとえば、中国の電解槽企業は自国内の特許出願だけでなく、欧州や東南アジア、中東でのPCT(特許協力条約)出願も強化しており、輸出先での実施権取得や競合の排除を図っている。
さらに、アライアンス型の特許共有ネットワークも進行中で、複数企業で共同開発した要素技術を包括特許で押さえ、ライセンス供与によってエコシステム全体の利益を高める「囲い込み戦略」が見て取れる。これは、日本企業が得意としてきた“単独特許モデル”とは異なり、「市場と連動した知財マネジメント」の進化形といえる。
日本企業が対抗するには、以下のような戦略転換が急務だ:
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技術だけでなく「実装シナリオ」に基づく特許出願
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官民連携による海外市場での「共同PCT出願枠」の創設
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スタートアップや大学との共創による“オープン特許群”の形成
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グローバルサプライチェーンと連動したFTO(実施自由度)対策
おわりに:水素技術は“知財の戦争”へと進化する
水素社会の実現に向けた戦いは、もはや技術力や出願数の問題だけではない。いかに早く、広く、実装可能な形で市場に出せるか、そしてその過程でいかに“知財の壁”を築くかが勝負の分かれ目だ。
中国の逆転劇は、製造業と知財戦略が高度に融合した結果であり、日本にとっては「警鐘」であると同時に、戦略再構築の好機でもある。これからの知財戦争において、勝者は「特許を取った者」ではなく、「特許を使える者」である。