2023年のMLBオールスター戦で、大谷翔平選手が愛犬を紹介したことが大きな話題となった。その犬の名前は「デコピン(DECOY)」——ファンの間ではすぐに愛称の「デコピン」が定着し、SNSでは「癒やされる」「翔平に似て可愛い」といった投稿が相次いだ。野球界のスーパースターの私生活が垣間見えるワンシーンに、多くの人が微笑ましさを感じたのだろう。
だが、微笑ましい話題の裏で、知的財産の世界ではちょっとした“騒動”が起きている。「デコピン」という言葉を巡り、商標出願が急増しているのだ。
「デコピン」の意味と転用の妙
まず、「デコピン」という日本語には元々「指でおでこを弾く行為」という意味がある。学校生活で友人間において軽い罰ゲームとして行われたり、漫画やアニメにも頻繁に登場する、いわば日常語に近い単語だ。つまり、大谷選手が犬にこの名前をつけたのも、「軽やかで、親しみやすい音」といったニュアンスから選ばれた可能性がある。
英語表記では「DECOY」と綴られるが、発音上は「デコピン」に近いため、日本国内での愛称として自然にその形が普及した。このネーミングの絶妙なバランスが、ファンの心を掴んだのだろう。
商標出願の実態
特許庁の公開データベースによれば、2023年後半から2024年にかけて、「デコピン」に関する商標出願が複数件確認されている。対象となる商品・サービスは実に多岐にわたり、アパレル、ペット用品、食品、飲料、さらには玩具やLINEスタンプに至るまで、その範囲は広がっている。
出願人も一般の法人や個人事業主で、大谷選手本人や関係者とは無関係とみられるケースが大半だ。中には「DECOPIN」の英字バージョンや、「デコピン〇〇」などを含んだ複合商標も確認されている。
では、これらの商標出願は認められるのか?
商標法の観点から
日本の商標法では、商標登録が認められるためには「識別性」が必要だ。すなわち、その名称が特定の商品やサービスと結びついており、他と区別できることが条件となる。
ただし、「デコピン」のような日常語、すでに一般に広く使われている言葉については、「自他商品等識別力がない」とされ、商標としては認められにくい場合もある。特に、単語自体に独自性や造語性が乏しく、特定の企業や個人の商品であると認識されない場合、登録は難しい。
また、著名人の名前や関連する愛称を用いた商標出願については、いわゆる「フリーライド(ただ乗り)」と判断される可能性もある。特に、大谷選手の人気や知名度に便乗する目的があると見なされれば、公序良俗に反するとして拒絶されるケースもある。
「悪意の出願」か、それともビジネスの先読みか?
近年、著名人や話題性のある言葉に便乗して商標出願を行う「便乗ビジネス」が問題視されている。たとえば、芸能人の愛称、流行語、SNSでバズった言葉などを即座に出願し、後に使用者に対してライセンス料を請求するようなケースも報告されている。
今回の「デコピン」出願ラッシュも、単なるファン心理によるものではなく、将来的な経済的利益を狙った行動と見ることができる。たとえば、今後「デコピン」という名前でペットブランドを立ち上げようと考えた場合、事前に商標を押さえておくことはビジネス戦略として理にかなっている。
ただし、それが著名人の私的領域にまで踏み込むものであれば、倫理的な問題も生じる。
大谷選手本人の出願は?
現時点では、大谷翔平選手やその所属事務所による「デコピン」商標の出願は確認されていない(2025年5月時点)。ただ、MLB選手の多くは自身の名前やロゴ、スローガンなどを商標化しており、今後「デコピン」に関しても何らかの対応を取る可能性はある。
特に、グッズ展開や広告契約など、商業的な展開を視野に入れるならば、「名前の保護」は必須だ。仮に他者が先に出願してしまい、登録された場合、大谷選手がその名前を商業利用する際に制限が生じる可能性もある。
一言の影響力と“文化”の所有権
この一件は、単なる「商標」の問題にとどまらず、現代における“文化の所有権”の問題とも言える。大谷選手が愛犬に名付けた一言が、ファンの間で一種の文化となり、さらにそれが商業的な価値を帯びるようになる——そのスピード感と影響力は、まさにSNS時代の象徴だ。
しかしその一方で、「誰が言葉を所有するのか?」という問いが改めて浮かび上がる。法律の世界では、早い者勝ちが原則だが、感情や倫理の観点では、便乗的な行動は支持されにくい。ましてやそれが、ファンの愛着や記憶と結びついた言葉であれば、なおさらである。
結びに:言葉の力を守るために
「デコピン」という言葉には、大谷翔平選手の人柄やユーモア、そしてペットとの絆が詰まっている。それを誰かが商標として独占しようとするなら、ファンの心には少なからず複雑な感情が芽生えるだろう。
商標制度は、本来「ビジネスを健全に守るため」の仕組みである。しかしそれが逆に、他人の創造や感性を囲い込む手段として使われるようでは本末転倒だ。
私たちは今、言葉の力がいかに社会に波紋を広げ、そして経済的影響力を持ちうるかを、改めて目の当たりにしている。だからこそ、そこに関わるすべての人々に問いたい。「その出願、本当に必要ですか?」と。