同じ「王将」なのに、なぜ共存できるのか
「餃子の王将」と「大阪王将」。
外食に詳しくない人でも、この二つの名前は一度は耳にしたことがあるはずだ。どちらも“王将”を名乗り、しかも中華料理、とりわけ餃子を看板商品にしている。商標の常識だけを聞けば、「そんなに似ていて大丈夫なのか」と感じるのが自然だろう。
実際、商標制度の大原則は明快である。同じような名前が、同じような商品やサービスに使われ、消費者が出所を混同するおそれがあるなら、本来は登録を認めない。 特許庁も現在の説明で、先行登録商標と類似する商標は、原則として商標法4条1項11号により登録できないとしている。さらに2024年4月からは、一定条件のもとで承諾と混同のおそれの不存在を要件に併存登録を認める「コンセント制度」が導入されたが、これはむしろ「本来はNG」が出発点であることを示している。
では、なぜ「王将」は二つ並び立てたのか。
そこにあるのは、法律の条文だけでは切れない、商標の実務と歴史の面白さである。
そもそも両社はどう分かれたのか
まず押さえておきたいのは、この二つが全く無関係の第三者同士ではないという点だ。現在の「餃子の王将」を展開する王将フードサービスは、京都を拠点に店舗網を広げてきた。一方、「大阪王将」は、同社のれん分けを起点として大阪で発展し、現在はイートアンドグループのブランドとして展開されている。王将フードサービスの沿革や、大阪王将側の会社情報からも、両ブランドが別個の事業として発展してきた経緯が確認できる。
つまりこれは、最初から赤の他人が偶然そっくりの名前をつけた事案ではない。
同じルーツを持ちながら、それぞれが別の会社として成長し、結果として「同じ王将を含む名前」が市場で併存する状態になった。ここが、この問題を単純な「類似商標だからアウト」と言い切れなくしている出発点である。
商標は“文字の似方”だけでは決まらない
一般の感覚では、商標の類否は「見た目が似ているか」で決まるように思われがちだ。だが実務では、外観、称呼、観念の三つが基本要素とされ、それに加えて実際の取引の実情が重視される。
たしかに「王将」という中核部分だけを見ると、両者はかなり近い。称呼でも「オウショウ」が共通し、観念も「王将」で重なる。だから、商品やサービスが同じなら本来かなり厳しい。実際、後年の無効審判や訴訟では、「餃子の王将」「大阪王将」をめぐり、どこまで類似といえるかが真正面から争われた。裁判所の公開資料でも、共通部分の称呼・観念が問題となりつつ、どの商品に使われるか、需要者がどう認識するかを踏まえて判断が分かれたことが示されている。
ここが商標の難しいところだ。
法律は抽象的でも、現実の市場は具体的である。同じ「王将」でも、消費者が実際には「餃子の王将」と「大阪王将」を別物として認識しているなら、机上の類似判断だけでは割り切れない。逆に、区別がつかずに混同が起きるなら、長年の使用実績があっても危うくなる。
併存を支えたのは“名前の足し算”だった
この二つが共存できた理由を端的に言えば、「王将」単独ではなく、それぞれが別の識別要素を足して市場で棲み分けてきたからである。
過去の解説や裁判関連資料では、両社の紛争の中で、京都側は「餃子の王将」、大阪側は「大阪王将」または「中華王将」と表示する内容で和解したことが紹介されている。要するに、「王将」だけではなく、前に付く言葉を含めてブランドとして識別してもらう方向に整理されたわけだ。
これは商標の発想として非常に示唆的である。
名前の一部が共通していても、全体として見たときに、消費者が別ブランドだと理解できるなら、混同は必ずしも起きない。実際、「餃子の王将」と「大阪王将」は、店名のフルネーム、ロゴ、店舗デザイン、商圏での認知、メニューイメージの積み重ねによって、長年かけて別個のブランドとして社会に定着していった。
つまり特許庁や裁判所が見ているのは、単なる文字列ではなく、市場の中でその名前がどう機能しているかなのである。
本来はNG、それでも現実には“例外”が生まれる
ここで重要なのは、「王将の件があるなら、似た名前でも何とかなる」と短絡しないことだ。
むしろ逆で、このケースはかなり特殊である。
第一に、両社には歴史的な経緯がある。
第二に、単なる偶然の一致ではなく、長年にわたりそれぞれが別ブランドとして社会的認知を積み上げてきた。
第三に、紛争を経ながらも、表示の仕方や使用の仕方に一定の整理が加えられてきた。
こうした事情が重なったからこそ、現実の取引社会に即した“線引き”が可能になった。言い換えれば、これは原則を壊したのではなく、原則を現実に適用した結果として生まれた例外である。
実際、2024年から始まったコンセント制度でも、先行権利者の承諾があれば何でも通るわけではない。特許庁は、承諾に加え、なお「混同を生ずるおそれがない」ことを求めている。制度が変わっても、最後に問われるのは結局そこなのだ。
商標制度が守っているのは“企業の面子”ではない
商標の議論は、しばしば企業同士の縄張り争いのように見える。
だが制度の本質は、企業の面子を守ることではない。守ろうとしているのは、消費者が間違えないことであり、同時に、長年積み上げられたブランドへの信頼である。
「餃子の王将」と「大阪王将」が両立してきたのは、最終的に消費者が両者を識別できるという社会的現実があったからだろう。もしどちらかが、相手の信用にただ乗りするような形で表示を曖昧にし、混同を招くような使い方をしていれば、同じ結論にはならなかったはずだ。
ここに、商標の“線引き”の本質がある。
線は辞書の上に引かれるのではない。市場の中、店頭の看板、商品のパッケージ、消費者の記憶、その総体の上に引かれるのである。
「似ているか」より「どう見分けられているか」
この話が面白いのは、法律が現実に追いつこうとする場面がよく見えるからだ。
商標の世界では、「似ているか」はもちろん大事だ。だがそれ以上に重要なのは、消費者が現実にどう見分けているかである。
たとえば新規ブランドが、著名ブランドに一文字だけ足したような名前で参入すれば、かなり危ない。歴史的経緯もなく、識別の蓄積もないからだ。しかし「王将」のケースは、長い年月の中で両者が別のブランドとして社会に埋め込まれていった。だからこそ、同じルールブックを使っていても、結論は単純ではない。
商標の世界には、白か黒かだけではないグレーの領域がある。
そして、そのグレーを雑に処理せず、実情に応じて判断するのが、特許庁や裁判所の役割でもある。
「王将」の併存が教えるもの
「餃子の王将」と「大阪王将」が並び立つ光景は、一見すると制度の抜け穴のようにも見える。だが本当は逆だ。これは、商標制度がただ機械的に文字列を比較するだけのものではなく、ブランドの歴史、使用態様、取引の現実、消費者の認識まで含めて判断する制度であることを教えてくれる。
本来はNG。
しかし、現実に混同が生じないよう整理され、社会の中で別物として定着しているなら、例外的に併存が許されることがある。そこには甘さではなく、むしろ制度の成熟がある。
商標とは、名前を独占するためだけの道具ではない。
誰が、どの名前で、どの信用を背負って商売しているのかを、社会に分かりやすく示すための仕組みだ。
だから「王将」の併存が示しているのは、ルールの曖昧さではない。
むしろ、商標の線引きは、文字ではなく“混同の有無”によって引かれるという、制度の最も本質的な考え方なのである。