■ 序章:静かに増える“赤い知財網”
特許庁の公開データを丹念に追うと、近年ひとつの変化が浮かび上がる。日本国内での中国企業による特許出願が、2015年以降、年率二桁で増加しているのだ。
とりわけ通信・電池・モビリティといった「脱炭素×デジタル」分野に集中しており、日本企業が得意とする領域を正面から狙っている。こうした動きの中心にいるのが、通信大手・華為技術(ファーウェイ)である。
米中摩擦のさなかで輸出規制を受けた同社は、ハードウェア販売から“知財収益企業”への転換を進めている。特許を単なる研究成果ではなく、次の市場を支配するための「交渉権」と位置づけ、グローバルで攻勢を強めている。
その標的のひとつが、日本だ。技術大国であり、EV・5G・次世代インフラの重要市場でもある。今、ファーウェイはこの国の中で、静かに特許網を張り巡らせている。
■ 1.急増する中国出願、日本の知財構造を覆う
日本特許庁が公表する統計によれば、外国企業による日本出願のうち、中国勢の比率はこの10年で約3倍に増加した。出願件数の伸びでは米国や欧州を凌駕し、分野別では通信、電池、AI制御、モビリティが上位を占める。
特に顕著なのは「電動化と接続化の交点」、すなわちEVと通信インフラの融合領域である。
たとえば、車載通信やバッテリー管理システム(BMS)、V2X通信(車からインフラへのデータ連携)に関連する特許分類を調べると、中国出願人が2020年代に入り一気に台頭している。日本企業が実用化を優先するあまり出願件数を絞っていた間に、中国勢は“量”で先手を打った格好だ。
知財は時間との勝負であり、出願が早ければ早いほど市場参入時の交渉力になる。日本企業が得意とする実装領域のすぐ隣で、中国企業が「将来の壁」を築きつつある構図だ。
■ 2.ファーウェイの知財モデル—“通信の王”から“交渉の帝王”へ
ファーウェイの知財戦略は、もはや通信機器メーカーの枠を超えている。
同社は2024年時点で世界に10万件以上の有効特許を保有し、特に5G・基地局関連の標準必須特許(SEP)では世界トップクラスの保有数を誇る。
しかも注目すべきは、これらの特許が通信ネットワークだけでなく、EV・自動運転・スマートシティへと応用可能な設計になっている点だ。
たとえば、5G通信による車車間(V2V)や車路間(V2I)通信、またはクラウド制御による自動運転制御などは、ファーウェイの強みそのものだ。
つまり同社は、通信規格で培った特許群をモビリティ領域に水平展開しようとしている。
この戦略は、米国の規制により通信機器販売が制限される中で、特許ライセンスを通じて世界の自動車産業から安定的な収益を得る構想とも重なる。
実際、ファーウェイは2023年から特許ライセンス収入を新たな事業柱とし、年間数千億円規模のロイヤルティを得ている。AppleやSamsungなどとの交渉でも優位に立ち、知財を“商品”として世界に輸出しているのである。
■ 3.EV × 5G基地局—次の知財戦場
ファーウェイが特に注力するのは、EVと5G基地局を結ぶ「モビリティ通信プラットフォーム」だ。
同社はすでに中国国内で電動車ブランド「AITO」シリーズを展開し、自動運転技術「ADS」を搭載する。これらの車には、ファーウェイ製の5G通信チップとクラウド制御モジュールが組み込まれ、車両・道路・基地局がリアルタイムで連携する。
この仕組みを支えるのが、同社の特許群である。
通信装置、アンテナ制御、位置推定、車載ネットワーク、クラウド最適化など、関連特許を数百件単位で申請。日本国内でもこれらに対応する出願が急増している。
要するに、ファーウェイは「車がネットワークの一部になる時代」に備え、EVそのものを通信端末として設計しているのだ。
そしてこの構想は、単なる自動車ビジネスではない。
EVの走行データや位置情報をクラウドに集約し、交通制御やエネルギー配分、さらには都市のデジタルツイン構築へとつなげる。そこに5G基地局とAIが組み合わされれば、通信インフラとモビリティインフラが一体化した「次世代都市OS」が誕生する。
ファーウェイの特許網は、その基盤を日本でも押さえようとしている。
■ 4.日本企業が直面する“知財シフト”
では、日本側はどう対応すべきだろうか。
従来の日本企業の強みは、実装力と品質保証、そして長期的な技術蓄積にあった。しかし、今後は「標準化と知財ネットワークの構築」が勝敗を分ける時代になる。
つまり、技術を作るだけでは足りず、規格を定義し、特許で囲い、データを支配することが求められる。
中国企業の知財戦略はこの逆を突いてくる。
彼らは規格策定の段階から参画し、自国標準を国際標準へ押し上げる。そして関連技術を網のように出願して“特許の地雷原”を形成する。
結果として、日本企業が海外で製品を販売する際に、中国企業の特許に抵触し、ライセンス料や訴訟リスクを負う構造が生まれる。
特許は「技術」ではなく「経済の通行証」になりつつあるのだ。
日本としては、まずクロスドメインの出願を強化する必要がある。
車載通信・電力制御・AIアルゴリズムなど、これまで別々に扱っていた技術を横断的に統合し、複数の分野にまたがるクレームを設計すること。
さらに、産官学が連携して「日本発の標準仕様」を形成し、国際標準化会議に積極的に参画することが急務である。
技術立国・日本が再びリーダーシップを取り戻すには、“標準化×知財”の同時進行が不可欠だ。
■ 5.ファーウェイに学ぶ「知財経営」の現実
皮肉なことに、ファーウェイは“知財で稼ぐ企業”へと進化することで、アメリカの制裁をビジネスチャンスに変えてしまった。
販売規制によって機器の輸出は減ったが、逆にその特許技術を世界中のメーカーにライセンスすることで、安定した収益を確保したのだ。
2024年には特許ライセンス料収入が年間15億ドルを超え、同社の財務報告書でも主要収益源の一つに位置づけられている。
この動きは「知財のグローバル再編」を象徴している。
もはや特許は企業の研究成果ではなく、国際政治と経済の武器であり、知財戦略こそが産業覇権の鍵になった。
ファーウェイはまさにその最前線で、「技術国家・中国」の知財実験を体現している。
■ 結語:知財の時代、日本はどう動くか
EVと5G、そしてAI。
これらの技術をつなぐ軸を握る者が、次の産業構造を支配する。
ファーウェイはそのことを誰よりも早く理解し、通信特許をモビリティや都市インフラへと拡張している。
日本の自動車メーカーや通信キャリア、部品サプライヤーがいま直面しているのは、製品競争ではなく知財構造の再設計だ。
特許は静かな戦争であり、申請の一行一行が未来の市場を形づくる。
ファーウェイの特許攻勢は、単なる中国企業の快進撃ではない。
それは、「どの国が次の産業基盤を設計するか」を巡る、世界的な知財主導戦略の象徴である。
日本企業がこの流れに後れを取ることは、技術を持ちながら市場のルールを他国に委ねることを意味する。
だからこそ今こそ、特許を“守る壁”から“攻める武器”へと転換すべき時だ。
知財こそが、これからの経済安全保障と産業独立の真の鍵を握っている。