2024年3月、日本の製薬大手エーザイ株式会社は、同社が開発・販売する抗がん剤「レンビマ(一般名:レンバチニブ)」に関する米国での特許侵害訴訟において、インドの大手後発医薬品メーカーであるサン・ファーマシューティカル・インダストリーズ(Sun Pharmaceutical Industries Ltd.)との間で和解に至ったことを発表した。この訴訟での勝訴は、単なる一製薬企業の勝利にとどまらず、国際市場における知的財産権(IP)と製薬業界の今後の戦略に深い示唆を与えるものである。
製薬企業にとっての「命綱」、それが特許である
医薬品の研究開発には、通常で10年以上、数百億円から千億円規模の巨額な投資が必要とされる。加えて、開発された医薬品が承認され市場に出るまでの過程には、膨大な試験データ、安全性確認、規制当局との協議が伴い、すべてのプロセスを経て初めて製品として世に送り出される。この莫大な投資を回収し、次世代医薬品の研究を継続するための資源を生み出す仕組みが、特許によって守られた独占販売期間なのである。
レンビマは、エーザイが独自に開発したマルチチロシンキナーゼ阻害剤であり、肝細胞がんや腎細胞がん、甲状腺がんなどに適応されている経口抗がん剤だ。米国では2015年から販売が開始され、2023年度のグローバル売上高は1,600億円を超えたとされる。エーザイの収益の柱の一つであるレンビマを、できるだけ長く特許で守ることは、同社にとって死活的な戦略なのである。
ANDAと訴訟の構造―なぜ争うのか?
サン・ファーマは、米国FDA(食品医薬品局)に対し、レンビマの後発医薬品の製造・販売承認を申請した。この申請(通称:ANDA=Abbreviated New Drug Application)は、既存医薬品の特許に挑戦し、ジェネリックを市場投入するための手続きである。特許が有効な期間内にANDAを提出した場合、ブランド企業は自社の特許が侵害されたとして訴訟を起こす権利を有する。エーザイはこれに応じ、2019年にニュージャージー連邦地裁へ提訴。争点となったのは、レンビマの製剤における「高純度レンバチニブメシル酸塩」に関する特許だった。
この特許(米国特許第10,407,393号および第11,186,547号)は、レンビマの安定性や安全性を支える重要な技術的基盤であり、これを保護することで後発品による市場侵入を抑制する効果がある。
訴訟は約4年間にわたり継続され、最終的に両社は2024年3月に和解に達した。和解内容は非公開だが、一般的には「特許満了まで後発品の発売を認めない」あるいは「特定の年から限定的に発売可能」といった取り決めがなされることが多い。今回の和解を受けて、エーザイは「レンビマの価値最大化に資する結果となった」とコメントしており、一定の勝訴的内容だったと見られる。
エーザイの知財防衛の歴史と戦略
エーザイはこれまでも自社製品を守るために、特許訴訟を積極的に活用してきた。たとえば、認知症治療薬「アリセプト」では、後発メーカーとの間で仮差止め訴訟を起こし、一時的な販売差止めを勝ち取った。また、胃薬「アシフェックス(ラベプラゾール)」でも後発企業を相手取って訴訟を起こし、最終的に勝訴を収めている。
エーザイはこうした訴訟において、単なる防衛にとどまらず、知財を「攻めの戦略」の一環として位置づけている。すなわち、特許の取得段階から将来的な訴訟を見越し、権利行使しやすいクレーム構造や補完的な特許群(特許パッケージ)を組み合わせることで、複数の側面から製品を防御しているのだ。
裁判所が語る「特許の意味」―米国知財制度の視点
今回の訴訟で注目すべきは、米国の司法制度がエーザイの主張する製品特許の有効性を認め、後発企業の主張する「無効性」あるいは「非侵害性」が通らなかったという点である。米国では、製薬特許を巡る訴訟の多くが和解や非公開の合意で終了するため、知財の価値や正当性が明示的に裁判所で認定される機会は限られている。
しかし、その限られた機会の中で、今回の訴訟結果は、エーザイの知財戦略が法的にも確固たるものであることを示した。このことは、他の日本企業にとっても示唆的であり、今後のグローバル市場でのビジネス展開において、知財戦略の重要性を再認識する材料となる。
知財の防衛と社会的責任―後発医薬品との共存
とはいえ、特許による保護が無制限に認められるわけではない。特許制度は、あくまでも「公的利益と私的利益のバランス」の上に成り立っている。特許によって企業の研究開発インセンティブを守りつつ、最終的には一定期間後に技術が公開され、後発品の参入によって医薬品価格が下がる。このサイクルこそが、医薬制度の健全性を維持する鍵である。
その意味で、特許訴訟も「排除」ではなく「共存」のための時間を確保する手段と捉えるべきである。エーザイが今後、レンビマの次に続く画期的な新薬を開発し続けるには、まさにこの「守りの期間」が必要なのだ。
終わりに―日本企業は知財を「攻める」武器とせよ
今回のエーザイの勝訴は、単なる一企業の成功ではなく、日本発の製薬企業がグローバル知財戦略を持って世界で戦えることを示す重要な事例である。特許は守りの手段であると同時に、グローバル競争における攻めの武器でもある。今後、日本企業が世界でプレゼンスを維持・拡大していくには、知財戦略を経営の中核に据える覚悟が求められる。