1. はじめに
2023年、VR(バーチャルリアリティ)業界で一般的に使用されていた「フルトラ(フルボディトラッキング)」という用語の商標登録が特許庁によって無効とされる決定が下されました。本件は、業界全体に大きな影響を及ぼすだけでなく、AIが提供する情報の証拠能力に関する議論をも巻き起こしました。特に、AIであるChatGPTの回答が証拠として提出されたものの、特許庁がこれを認めなかった点は、今後の知財紛争におけるAIの役割を考える上で興味深いポイントとなっています。
本稿では、「フルトラ」の商標登録が無効とされた経緯、ChatGPTを用いた証拠提出とその評価、そして今回の事例が示すAIの証拠能力の課題について詳しく解説します。
2. 「フルトラ」とは何か
「フルトラ」とは「フルボディトラッキング(Full Body Tracking)」の略称で、VR環境においてユーザーの全身の動きをリアルタイムでアバターに反映させる技術を指します。この技術を利用することで、ユーザーはより没入感のあるVR体験を得ることができ、特にVRChatのようなメタバースプラットフォームで広く活用されています。
VR市場が拡大する中で、「フルトラ」は単なる技術用語ではなく、一般的なコミュニティ用語として定着していました。このため、「フルトラ」の商標登録が特定の企業によって行われたことに対し、多くのVRユーザーや企業から反発がありました。
3. 商標登録とその波紋
2021年10月、株式会社Shiftallは「フルトラ」を商標として登録しました。しかし、この登録に対し、メタバース事業を展開する株式会社アオミネクストは異議を唱えました。同社は、「フルトラ」という言葉が商標登録以前からVR業界で広く一般的に使用されていたため、特定の企業が独占するべきではないと主張しました。
この問題はVR業界内外で大きな議論を呼び、多くのユーザーが「フルトラ」という言葉が商標登録されるべきでないと考えるようになりました。実際に、SNS上では「フルトラ商標問題」が話題となり、多くのVRユーザーが特許庁に対して登録の無効を求める声を上げました。
4. AI ChatGPT による証拠提出とその評価
アオミネクストは2023年8月、特許庁に対して商標登録無効審判を請求しました。その際、「フルトラ」という言葉が商標登録以前から一般的に使用されていたことを証明するために、ChatGPTによる回答を証拠として提出しました。
ChatGPTは、広範なインターネット情報をもとに回答を生成するAIですが、特許庁はこのAIによる回答を正式な証拠として認めませんでした。特許庁がChatGPTの情報を証拠としなかった理由として、以下のような点が挙げられます。
1.情報の出典が不明確:ChatGPTの回答は、多数の情報源から生成されるものであり、特定の一次資料に基づいているわけではありません。そのため、証拠としての信頼性が疑問視されました。
2.データの改変・誤りの可能性:AIの生成する情報は、必ずしも正確とは限らず、誤った情報を含む可能性があります。
3. 法的手続きにおけるAIの位置づけの未整備:現状の日本の法制度において、AIが作成した情報を法的証拠としてどのように扱うべきか明確な基準が存在しません。
このため、特許庁はChatGPTによる回答を正式な証拠として認めず、代わりに他の証拠(過去の雑誌記事やSNSの投稿履歴など)が審査の決め手となりました。
5. 特許庁の決定とその影響
最終的に、特許庁は「フルトラ」という言葉が商標登録以前からVR業界で広く使用されていたことを認め、商標登録を無効とする決定を下しました。これにより、「フルトラ」は特定の企業によって独占されることなく、VR業界全体で自由に使用できるようになりました。
この決定は、VR業界において一般的な用語の商標登録がどのように扱われるべきかという問題に一つの方向性を示しました。また、特許庁がAIの情報を証拠として認めなかった点は、今後の法的手続きにおけるAIの役割を考える上で重要な示唆を与えています。
6. AIの証拠能力に関する今後の課題
今回の事例を通じて、AIが提供する情報の証拠能力について改めて考える必要があることが明らかになりました。AIは膨大な情報をもとに回答を生成するため、特定の事象の客観的な証拠となる可能性があります。しかし、現行の法制度ではAIの出力情報を正式な証拠として扱うための基準が確立されていません。
今後、AIがより多くの分野で活用されるようになるにつれ、AIの証拠能力に関する法的議論も活発化すると考えられます。特に、
◯AIの回答の出典を明確にする手法の開発
◯ AIが生成する情報の信頼性を高めるための技術的対策
◯AIが証拠として認められるための法的枠組みの整備
といった点が求められるでしょう。
7. まとめ
「フルトラ」の商標登録無効化は、VR業界にとって重要な出来事でした。一般的に使用されている用語を特定の企業が商標として独占することの是非や、AIが提供する情報の証拠能力など、現代の技術と法制度の在り方を再考する契機となりました。
今後、同様の事例が発生した際には、今回の経験を踏まえた適切な対応が求められるでしょう。そして、AIの証拠能力についても、技術と法の両面からの検討が不可欠となります。