平成のIT革命時代を羽ばたいた希代の発明家の半生に迫る。

令和の現代、日夜新しいソフトウェアやアプリケーションが生まれていて、私たちはをそれを「スマホのアプリ」だったり、「新しいゲーム機」だったり、あるいは日常をわずかに、しかし画期的に快適にするありとあらゆる場所の装置を通して、当たり前のように触れている。

IT事業における日本の黎明期の躍進を支えたのが、今回インタビューをした小川秀明氏だ。

PROFILE

小川 秀明

HIDEAKI OGAWA

■1981年 京都工芸繊維大学 工芸学部電子工学科卒業
■1981年 富士通テン株式会社(現デンソーテン㈱)入社
車載用CD関連システムの開発、カーナビゲーションの開発、車載用電子機器の開発に従事。
富士通株式会社の路車間通信システム(現VICS)の研究に従事。
また、 1985年からCD-I関連プロジェクトリーダ、CD-Iプレーヤの研究、開発及び航空機用電子機器の研究に従事。

■1991年 松下電器産業株式会社(現パナソニック㈱)入社。
オーディオ・ビデオ研究所にて光ディスク関連システム、画像圧縮技術、動画圧縮関連システムLSIの研究に従事。
光ディスク(CD、Video-CD、CD-I、DVD)関連ライセンサとして特許戦略、特許クレーム分析、特許価値評価の研究に従事。

■1999年 株式会社ハイパーテック入社。ゼネラルマネージャに就任
■2003年 株式会社ハイパーテック代表取締役に就任。
東証一部メーカをはじめ、数十社の知的財産権関連コンサルティング、DVDオーサリング関連システムの開発、特許明細書作成支援システム関連の開発、耐タンパーセキュリティの基礎研究、システム開発、耐タンパーセキュリティソフト「CrackProof」の開発と販売に従事。

■2015年 株式会社DNPハイパーテック(大日本印刷株式会社100%連結子会社) 代表取締役社長に就任
■2018年 同社退任(11月末)

■2019年 アクロソフト株式会社 設立、代表取締役社長に就任
(兼任)職業訓練法人 日本技能教育開発センター(JTEX)講師
■2020年 世界初の経済的特許価値評価Webサービス「PATWARE」販売開始
(工藤一郎国際特許事務所と共同開発)

発明家のサラブレッド

小川氏の発明家としての人生は、遡れば生家の環境にまでたどり着く。

「父が発明家で、家の中に、当時まだデジタル化していなかった特許申請などにかかる用紙がいたるところにあって。『なんだこの紙は』と思いながら生活していましたね」と笑い交じりに語る小川氏。

3兄弟の長男として生まれ育ち、発明家の父の姿を長くその傍らで見て、何かを生み出すという思考方法を自然と身に着けていった。

特許ライセンスだけで生計をたてていたという小川氏の父の主な顧客は、パナソニックをはじめとした当時から名だたる国内のメーカー各社。

「ガス湯沸かし器の点火機能や、寺社や重要文化財で使われている警報機とか。それも父の発明です。1970年の万博のときにアポロ11号が持ち帰った『月の石』も守った装置です。それから、電子式のタクシーメーターや、硬貨選別装置。マイコンがない時代ですから、なんでこの装置で材質がわかるんだ、とよく不思議がられていました。国鉄(現JR)や数多くの私鉄に使われていました。」

100点をゆうに超える特許ライセンスの収益があったが、それらはすべて研究費用に使われていたそうで、まさに根っからの発明家、そしてそのサラブレッドが小川氏なのである。

学生時代から現在まで続けていた、渡航経験やベンチャー企業訪問経験だという。

「学生の頃から、アメリカ・シリコンバレーにある会社主催の研究会出席や経営者と話したり、スタンフォードやMIT(マサチュセッツ工科大学)といった学術研究機関に行ったり、そういったことで刺激をもらって自分の開発のヒントにしていた。ちなみに、apple社の故・ジョブズ氏からは名刺ももらったのですが、それはどこかにやってしまいました」と、残念そうにしながらも朗らかな一面を垣間見せた。

そんな小川氏もまずはサラリーマンとしての就業経験を積んでいる。神戸の富士通テンでのコンパクトディスク(CD)開発や富士通の路車間通信(現材のカーナビVICS機能)研究の後、東京転勤、そこでコンパクト・ディスク・インタラクティブ(CD-I)や航空機用の電子機器の開発をてがけた。

1991年、30歳を前にして関西に戻ることになり、その後1994年に1つめの会社を奥様と立ち上げたそうだ。奥様と二人三脚、そしてご兄弟とも手を取り会社を走らせ続け20年、後継者をどうする、となったところで悩みに悩んだ末、個人ではなく大日本印刷(以降、DNP)とのM&Aという形で、次代にバトンを託す選択をした。

3年の引継ぎを並走したのち、退任。2019年に2社目となるアクロソフト株式会社を立ち上げ、今に至る。

中でも特に苦労したのは デューデリジェンス(会社売却時)とのこと。

「財務はもちろん、顧客先、契約書、事業計画等に加えて最後に取得済みの特許について等、弊社の特許戦略に始まり競合他社の特許分析、周辺特許戦略まで徹底的に聞かれました。DNPは セキュリティ技術分野のスペシャリスト、弁理士等 1番多くの人員でヒアリングされました。M&A時は知財関連でNGになるケースが1番多いとお聞きしました。」と小川氏。

それぞれの会社で、どのフェーズにあっても小川氏を突き動かしていたのは「世界初のモノを創りたい」という野心だった。

「当時は世界初のものにしか興味がなくて。ひとつのものを作ると、また次、また次、と、新しいものづくりがしたくなるんです。」

富士通時代は、車載用としては国内初となるCDプレーヤーの開発に貢献。実際に、インタビューの中でも自身が生み出したプロダクトの実物をまさに我が子が如く取り上げ、説明してくれた。

「いい経験になったと思うのは、配属当初のモーターショウ。そこで外部企業の力を借りず、いちから自分たちでソフトからハードまですべて作っていったのが良かった。なかなかそんなことはできませんからね」と小川氏。

大企業の中で、発明の感性を磨き、実際のモノづくりの経験を積み、起業への地力を堅実に固めた。

「自らの会社」で戦う、更なる開発の日々

退職後立ち上げたハイパーテック社は、開発のための資本金1000万でスタートをきった。そこで、大企業が数百人単位で2年はかけて作るようなVideo-CDのオーサリングシステムをわずか半年で作りあげた。

Mac全盛期だった当時、これから伸びてくるであろうWindowsでやろう、とひとり声をあげ大反対にあった小川氏だったが、見事に開発に成功し、展示会場でも多数の購入希望を受け、確かな手ごたえを感じたという。

その頃、ベンチャーの支援制度を使って移住した街でも功績が認められ、その後も縁あって長く暮らしている。

もう1つ、同社が手掛けたセキュリティソフトは、今のスマホのほとんどに入っており、Microsoft社の選ぶツールベスト100にも選出された。

「セキュリティの仕組みっていうのは、普通はデータに対してかけるもの。ですが、私たちが作ったのは実行ファイルにそのままかけられるシステムです。そうすることで、セキュリティをかけたものであっても速度が遅くならない。世界中の研究所が同じことをやっていましたが、何十倍も遅くなる。いろいろな賞もいただきました。」と、開発した当時を振り返る小川氏。十数名という少数精鋭でサポートまですべて担っていたそうだ。

IT企業の勃興の時代を、持ち前のバイタリティと経験で磨いたセンスで順調に切り開いていった、その先駆的な会社となったハイパーテック社は、その後前述の通りDNPとのM&Aの道を選ぶ。

海外から、多くの特許技術に着目され、多数の声かかかったが、「お金がありすぎるのも、ダメになると思いましてね」と、国内での合併を選択した。「当時の従業員も全員引き継いで受け入れてくれる、というのもDNPでした」と、小川氏は語る。

発明と向き合いながらも何よりも人情と人のつながりを大切にされてきていたことも、言葉の端々からにじみ出ていた。

2019年、会社をDNPに任せる基盤が整い、2社目となるアクロソフト株式会社を設立。セキュリティ需要の大きさに業界がひっぱられていく中、特許を中心に扱いたいという思いがあり、「退陣後、ゆっくりする未来もあったのですが」と言いつつも、やりたいことをやるために、間髪入れずのリスタートを切った。

特許を見える化したい、これをきっちりやればベンチャーも使うのではと考え、特許の価値評価のオートメーションに挑む。

それまで、特許の価値評価というのは手作業で行われていることも多く、期間にして1~3カ月かかるし何百万と費用もかかるものだった。

「これをゼロにしないと、日本は負けるんじゃないか。」そう考えた小川氏はそのロスを限りなくゼロに、リアルタイムに近く、信頼性があり、そしてコストが安い、といい3点を押さえて算出できるようにシステムを開発した。

なぜそう次から次へと開発の糸口、新しいものが浮かび上がるのだろうか。インタビュアーの質問に、小川氏は「頭の出来とかの問題ではなくて、」と前置いてこう話してくれた。

「頭の回転は訓練です。問題意識を持てるか持てないか、世間を見ているか見てないか。開発だけではなく、日常の中で、これはもっと良くならないかといった視点を持つ。その訓練の量の違いです」と語る。

ハードウェアなどのコストのかかる開発についても、「こっちでだめなら、あっちで使う。そういうふうに考えながら開発します」とリスクヘッジしながらの積極的アクションの秘訣も、きっと記されていることだろう。

これからの発展、そして次なる1手を聞く

これからの開発についても、「将来的に、現在の価値評価システムにいろいろな機能を付けたい」と教えてくれた。様々な技術を使って企業内分析をしたり、チャートを作り出したりと、システムの枝葉はこれからも茂っていく様相だ。

「今も昔も、特許をしっかりやっておくほうがいいという考えは変わりません。すばらしい技術でも、特許の部分をしっかりやらないと儲けにはつながらないですからね。もちろん、お金儲けだけがすべてではないですよ。私も、特許の権利だけを売却したこともあります。MDの専用チップの全ソフトウェアをハイパーテック社が作っていましたけど、それは売却しました。なぜかって、普及させるためです。お金儲けではなく、技術を普及させるために、その技術を手放すこともあります。」

世界初のものを作り続ける小川氏は、ゆえにその視野は常に「日本」そして「世界」に向いている。

特許収入をまるっと次の開発費用に充てていたという発明家の父から、技術と同時にマインドもまたその血に受け継いで、平成、そして令和のIT革命を牽引している小川氏。

ハードウェアがある程度飽和してきた現代、「圧倒的なもの、群を抜けるものでないと、商売にならない」と冷静なまなざしもまた必要だと語る。

次の一手がどのような「世界初」の回路を繋ぐのか、発明家の闘志は今なお燃えている。