米製薬大手メルク(Merck & Co.、日本ではMSDとしても知られる)は、英国バイオ医薬品企業ベローナ・ファーマ(Verona Pharma)を約100億ドル(1兆4,700億円)で買収することで基本合意に至りました。買収金額は現地株式の米国預託株式(ADS)1株あたり107ドルで、これは直近の株価に対して約23%のプレミアムを上乗せした水準です。
背景:キイトルーダの特許切れと「ペイテントクリフ」
メルクの主力がん免疫療法薬「キイトルーダ(Keytruda)」は、昨年の売上高が約295億ドルに達し、同社全体の収益の約半分を占めています。しかしこのキイトルーダは2028年に主要特許が切れ、ジェネリックやバイオシミラーの競争にさらされる見込みで、今後5年間で収益が最大180億ドル失われる可能性があると試算されています。このいわゆる「ペイテントクリフ(特許の崖)」を乗り越えるために、メルクは既存のパイプラインに加え、戦略的買収による収益基盤の強化を進めています。
ベローナ・ファーマの焦点は「Ohtuvayre(オーツバイア)」
ベローナ・ファーマが開発する慢性閉塞性肺疾患(COPD)治療薬「Ohtuvayre(成分名:ensifentrine、商品名オーツバイア)」は2024年6月に米食品医薬品局(FDA)から承認され、初の新規吸入機構によるCOPD維持療法として注目を集めています。2024年には約4,230万ドル、2025年第一四半期には7,130万ドルの売上を記録し、四半期比で95%増と急成長中です。
Ohtuvayreは、気道を拡張するPDE3阻害作用と炎症を抑えるPDE4阻害作用を併せ持つ、初のデュアル作用型吸入薬であり、既存のCOPD治療薬に対する付加価値が評価されています。その潜在市場規模は、現在約170億ドルとされ、2032年までに270億ドルに拡大するとの見方もあります。
買収の狙いと評価
メルクはOhtuvayreの商業展開を通じて、2028年の特許切れ後の収益ギャップを埋めると同時に、心肺領域での強化を目指します。特に、既存で保持する肺高血圧症治療薬「Winrevair」と組み合わせることで、医師へのアクセス拡大が期待されています。
ベローナ株は買収報道後に急騰し、21%上昇して過去最高値を記録。一方、メルク株も2~3%上昇しました。業界アナリストからは本買収に対し、キイトルーダ依存からの脱却と新たな成長軌道への第一歩との評価が出ており、「10~15億ドル級の案件なら引き続き前向きに検討する」とのメルクCEOロバート・デイビス氏のコメントも報じられています。
また、2021年にはAcceleron社を115億ドルで買収し、2023年にもPrometheus社を108億ドルで買収しており、本案件は3年ぶりの大型案件となります。
買収の条件と今後の見通し
買収は両社取締役会が承認済みで、2025年第四四半期に完了する見込みです。資金調達は現金、商業手形、新規借入の組合せとなり、2026年の調整後一株当たり利益(EPS)を1株当たり約0.16ドル押し下げる影響が見込まれています。
買収完了後、オーツバイアはメルクの心肺系ポートフォリオに組み込まれ、米国以外の市場展開や非嚢胞性線維性気管支拡張症など適応拡大の可能性が追求されます。
業界全体への波及
製薬業界では、2027~28年にかけて約1,800億ドル分のブロックバスター薬が相次いで特許切れを迎えるとの見込みがあり、業界内ではイノベーションの取り込みを目的としたバイオベンチャー買収が広がっています。キイトルーダに続く大黒柱が求められる中、Ohtuvayreを含む肺・呼吸器領域強化は妥当な戦略とみられ、メルクの選択は業界トレンドを反映しています。
総括
メルクが100億ドル規模でベローナを買収する決定は、一つの「ヤマ場」に差しかかった製薬業界における典型的な対応策と言えます。キイトルーダを失った後を見据えた戦略的なM&Aであり、Ohtuvayreはその切り札となる可能性を持っています。承認済みの新薬を即座に主力ポートフォリオに組み込める手法は、PBM(パイプライン・ブロックバスター)時代の典型であり、今後も類似の買収が活発になることが予想されます。
一方、導入後の商業実行力、海外拡販、適応拡大の成否が成功の鍵となります。メルクが心肺領域でこれまでに築いてきた基盤を活かし、新薬としての地位を確立できるか。今後の展開に業界注目が集まります。