2025年5月、知的財産高等裁判所(知財高裁)は、東レ株式会社が起こした特許権侵害訴訟において、沢井製薬株式会社をはじめとするジェネリック医薬品メーカーに対して、217億円の損害賠償を命じる判決を下した。このニュースは製薬業界関係者を驚かせるとともに、日本の知財制度と医薬品政策のあり方について、改めて深い議論を呼び起こす契機となっている。
本稿では、この判決の背景、判決が意味するもの、そして今後の産業構造へのインパクトについて、独自の視点を交えて考察していく。
■ 東レの「レミッチ」とは何か
問題の発端は、東レが自社で開発した「レミッチ®」(一般名:ナルフラフィン塩酸塩)という薬剤にある。この薬は、特に慢性腎不全患者にみられる皮膚掻痒症(かゆみ)を抑えるために使われる新規作用機序の医薬品で、国内で2009年に承認された。発売当初から注目され、東レの医薬事業を代表する製品の一つである。
このレミッチは、開発に長期間と莫大な費用を要した革新的医薬品であるため、東レは当然のことながら特許によってその知的財産を厳重に保護していた。しかも、日本の特許法には「特許期間延長制度」が存在し、承認手続きによって実質的な独占販売期間が短くなるという問題を補完するために、特許の有効期限を最大5年間延長することが可能だ。東レはこれを活用してレミッチに関する特許を延長登録していた。
■ 訴訟の構図:延長特許はどこまで有効か
訴訟の焦点は、この延長された特許が、沢井製薬をはじめとする後発医薬品メーカーの製品にどこまで及ぶのかという点だった。
沢井製薬は、レミッチと同一成分である「ナルフラフィン塩酸塩」を用いたジェネリック医薬品を製造・販売。東レはこれに対し、自社の特許権を侵害しているとして訴訟を起こした。沢井側は、「延長された特許の範囲は、厚労省の承認内容と一致していない部分には及ばない」と主張し、特許無効の立場を取った。
一方、知財高裁は、特許権者が申請した延長の範囲と実際のジェネリック品の使用態様とを照らし合わせた結果、後発薬が明らかに延長特許の保護範囲に該当すると認定し、沢井製薬などに217億円という過去最高級の損害賠償を命じた。
この判断は、ジェネリックメーカーにとって「予測可能性」が脅かされる事態であり、製薬業界全体の知財リスクを見直す大きな転換点となった。
■ 「医薬品特許」vs「医療費削減政策」のねじれ
日本政府は、医療費の抑制を目的にジェネリック医薬品の普及を国家的に推進してきた。2025年時点では、ジェネリックの使用割合は80%を超えており、多くの医療機関や薬局が積極的に後発品への切り替えを促進している。
一方で、今回のようにジェネリックの投入が先発薬の特許を侵害していると判断される例が出てくると、「安価な医療」の実現と「創薬インセンティブの保護」という二律背反の問題が表面化する。
先発医薬品メーカーにとっては、莫大な研究開発費を回収する手段として特許期間の独占は不可欠である。特許を軽視すれば、新薬開発の意欲そのものが萎縮し、長期的には日本の医薬品産業そのものの国際競争力に悪影響を与えかねない。
■ 企業戦略とリスク管理の再構築へ
この判決の持つ意味は極めて大きい。今後、ジェネリックメーカーは先発品の特許調査において、より精緻かつ保守的なアプローチが求められる。単なる成分特許だけではなく、用途特許、製剤特許、そして延長登録の適用範囲に至るまで、複雑な特許網を理解しなければならない。
さらに、先発メーカー側も「勝訴ありき」でなく、訴訟に至らない知財戦略、たとえば共同開発、ライセンス供与、共同販売といった柔軟なパートナーシップの構築も視野に入れるべきだ。アグレッシブな法務戦略の背後には、冷静な事業戦略が不可欠である。
■ 知財を制する者が医薬を制す時代へ
今回の217億円賠償命令は、「知財経営」が日本の製薬業界においていかに重要かを強烈に印象づける判決となった。今後、AI創薬や遺伝子治療、mRNA技術など、新たな医薬品の形態が次々に生まれてくる時代においては、技術そのものの価値と同様に、それを法的にどう保護し、どう活用するかが問われてくる。
ジェネリックメーカーにとっても、これまでの「価格競争主体」のビジネスモデルから脱却し、「知財と共存するビジネスモデル」の模索が求められる時代が到来しているのだ。
■ おわりに:業界全体の“知的成熟”が問われる
日本の医薬品業界は今、技術革新と法制度の間に横たわる「深い溝」を乗り越える岐路に立っている。安価な医療の実現と新薬開発の持続可能性。この相反する命題に応えるためには、企業、政府、医療従事者、そして患者が共に“知的成熟”を遂げる必要がある。
特許は単なる「権利」ではなく、「未来への投資の証」である。この基本に立ち返り、知財と医療の調和を目指す制度設計と企業戦略が、今こそ必要とされている。