2025年5月、三菱ケミカルグループ(以下、三菱ケミカルG)は、世界最大の電気自動車(EV)用バッテリーメーカーである中国・寧徳時代新能源科技(CATL)に対し、リチウムイオン電池に使用される電解液の特許技術をライセンス供与する契約を締結したと発表した。電池材料業界における知財戦略の新たな局面を象徴するこの一件は、単なるライセンス供与という枠にとどまらず、日中間のEV産業連携、そして将来のバッテリー覇権をめぐる静かな攻防を映し出している。
■ 技術の中核「電解液」とは?
リチウムイオン電池の「4大要素」といえば、正極材、負極材、電解液、セパレーターである。その中でも電解液は、リチウムイオンの移動を媒介する液体であり、電池の出力特性、安全性、耐久性を大きく左右するキーパーツだ。
三菱ケミカルGは、難燃性や低温特性、長寿命を実現する独自の添加剤技術を有しており、特に高エネルギー密度型セルに適応するための電解液設計に関して、多くの特許群を保有している。今回CATLに供与される技術もその一部と見られ、同社の次世代電池開発にとって不可欠なピースとなるだろう。
■ CATLの意図:全方位戦略の一環
CATLはすでにバッテリー製造において圧倒的なシェアを誇るが、そのサプライチェーン強化と知財対策には余念がない。近年ではフォード、テスラ、BMWといった欧米自動車大手とも合弁を進め、北米・欧州市場への拡大を加速している。
だが、欧米では技術の出自や知的財産のクリーン性が厳しく問われる。特許侵害訴訟のリスクを避けるためにも、主要部材に関しては信頼性の高いライセンス供与が望ましい。三菱ケミカルGの電解液技術は、その意味で「知的財産の盾」として、CATLにとって戦略的な価値を持つ。
■ 三菱ケミカルGの戦略:部材の黒子から知財エンジンへ
一方の三菱ケミカルGは、電池そのものを製造するのではなく、材料技術に特化する「部材型ビジネスモデル」を長年貫いてきた。特許ライセンスによる収益化は、リスクを抑えつつ収益を得られる手法として、今後の主力事業になりうる。
さらに興味深いのは、三菱ケミカルGが単なる商業契約としてではなく、グローバル知財ネットワークを強化する一環としてこの契約を位置づけている点である。同社関係者は「世界の主要プレイヤーに日本発の材料技術を浸透させることで、日本の技術的プレゼンスを保持したい」と語っており、中国企業との協業においても一定の交渉力を維持できる体制を整えている。
■ 日本の材料技術はどう生きるのか?
EV市場は、今後10年で世界の自動車生産の過半を占めると予測される。その中で、電池は自動車の“心臓部”ともいえる存在だ。日本企業は、セルの製造こそ韓国・中国に押されがちだが、正極材(住友化学、戸田工業など)、セパレーター(旭化成、東レ)、電解液(三菱ケミカルG)といった中核部材では依然として技術優位を誇っている。
だが、この優位性を「製品」として維持するのではなく、「知的財産」として活かす流れが強まっている。つまり、製造を手放しても、特許で収益を得る“知財ドリブンモデル”への移行だ。これは、インテルがTSMCに製造を委託しながら設計に注力する半導体業界の構図とも重なる。
■ 特許戦争の静かな火種
一方で、EV・電池分野の特許は今後激しい衝突の温床にもなりうる。既に中国のBYDや韓国のLGエナジーソリューションとの間で、特許侵害をめぐる訴訟が複数件進行中である。今回のライセンス契約は、そうしたリスクを予防する「予防接種」ともいえるが、逆に言えば、こうした契約が増えることで、特許紛争の暗黙の警告線が明確化していくともいえる。
三菱ケミカルGとCATLという両雄の間でライセンス契約が成立したという事実は、ある意味で「知財が通貨になる時代」の到来を告げている。
■ EV覇権と知財地政学
日中間では、地政学的緊張が高まる一方で、EV技術をめぐる協業は静かに深化している。この事例は、その象徴だ。経済安全保障の観点からは、日本企業が技術を中国側に供与することへの懸念もある。だが、電池というグローバル産業においては、孤立より連携のほうが中長期的にはリスク分散になるという考え方も根強い。
つまり、日中EV連携は表面的には商業契約に見えても、実質的には「産業政策の延長戦」なのだ。知財を軸にしたこの新しい戦いに、日本企業がどう立ち回るかは、今後の技術立国としての運命を大きく左右するだろう。